先日、ふと自室にある小学校の卒業アルバムを手に取ってみた。
あどけない子どもたちの授業や行事の様子、ひとりひとりの将来の夢や作文などが載った個人ページ。
自分のページを開くと、将来の夢は「小説家」とあった。
職業として叶ってはいないが、今こうして文藝部として筆をとっているのだから、あながち宛が外れたというわけではないのかもしれない。
児童たちが作った「なんでもランキング」のページの「本をよく読む人」の欄に、わたしの名前が2位として載っていた。
休み時間は運動場で男子に混じってドッジボールをしていたわたしが、なぜこのランキングに載っているのかは謎である。
だけど、小学校生活のどのタイミングで読書に励んでいたのかは記憶にないが、確かに昔から本をよく読む子どもではあった。
小学校5年生の時は読書クラブに所属していたような覚えもある。
小学校の図書室には、学年の中でもわたしが一番多く通っていたような気もする。
江戸川乱歩の「少年探偵団」、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」、それから学校の怪談系の本をよく読んだ。
(しかしなぜ小学校の図書室は、あんなに怪談の類の書籍が多いのか。小泉八雲の「ろくろ首」まであった。)
学校が終わって友人と遊ばない日は、市の図書館に通いつめた。
市の施設だけあって児童書がたくさん置いてあったので、児童書が好きだったわたしにとって天国のような場所だった。
名木田恵子の「ふーことユーレイ」や、香月日輪の「地獄堂霊界通信」は今でも読み返したくなる名作だ。
中学校に進学しても図書館通いは終わらず、暇を見つけては読書に耽っていた。
年頃の娘らしく、「図書館に足繁く通い、テスト期間は図書館で勉強する自分」が好きだったのだと思う。
思えばこの期間に読んだ本でわたしの人格は形成されたのだろう。
恩田陸、有川浩、よしもとばなな、瀬尾まいこ、星新一、小川洋子…。グリム童話の原作にハマっていた時期もあった。
この時気づいたことがあった。わたしはおそらくエッセイが好きなのだ。
中学2年、3年と担任の先生が同じだった。
女性の数学の先生で、おおらかで生徒想いの優しい先生だった。
先生は教室の小さな本棚に、生徒が自由に読めるように私物の本を並べていた。
その中にあったのが、さくらももこの「もものかんづめ」だった。
知っている人も多いと思うが、さくらももこは底意地が悪い。
ちびまる子ちゃんで「優しくていいおじいちゃん」として描かれている友蔵が、実はめちゃくちゃ意地悪なクソジジイであることは割と周知の事実であるが、
だからといって死に様を見て爆笑できるさくらももこも相当歪んでいると思う。
だが、わたしも同様にその頃から若干の性格の歪みがあったので、そんな捻くれた視点で語られるエッセイはとんでもなくおもしろいものだった。
さくらももこのエッセイには、友人であるよしもとばななもよく出てくる。
よしもとばななもまた性格が捻くれていて、彼女が書いたエッセイもまた楽しく読むことができた。
こうしてエッセイについてのエッセイを書いてみることで、ひとつ思い出したことがある。
小さい頃、毎年お盆の時期になると家族で母方の実家である宮崎県の高千穂に帰省していた。
高千穂は小さいながら観光名所の多い町で、高千穂峡は日本の滝百選に選ばれていたり、
天照大神がプンプン怒って隠れた岩は高千穂の天岩戸神社にあるらしく、神話の町として有名であった。
しかしそんな観光名所など、小学生だったわたしには微塵も興味が湧くわけもなく、お盆の期間は毎日退屈で死にそうになっていた。
近所の牛のエサもやり飽きた。
トンボの手づかみも飽きた。
祖母が飼っている猫は子どもが嫌いで寄ってこない。
近くのコンビニまで歩いて20分。
そんなある日、祖母の家に数冊だけ本が置いてあることに気が付いた。
母が家を出る時に置いていったものだというその中の1冊を手に取った。
群ようこの「ネコの住所録」である。
タイトルから「猫が出てくる冒険ファンタジーかな?」と勝手に予想して読み始めたのだが、実際は群ようこがこれまた捻くれた目線で近所の猫やらペットについて語るエッセイだった。
おそらくわたしが人生で初めて読んだエッセイはこれだ。「ネコの住所録」だ。
これがまたおもしろいのだ。動物たちに対しての痛快なツッコミ、軽快な語り口、ちょっとの毒舌。
退屈に殺されかけていたわたしは、この本に夢中になった。
時間を見つけては読み進めていたが、愛知に帰るまでに読み終わることはできなかったのだけれど。
わたしは、自分に起きた物事を何かや誰かのせいにするのは好きではない。
好きではないが、わたしの性格に難がある原因の一端は、思春期に読んだこのちょっと偏屈な女性作家たちのエッセイにもあるのではないか。
そして性根が曲がっているから、今わたしはエッセイを書いているのではないか。
いや別に、性根が曲がっている人間しかエッセイを書くというわけではないが。
このエッセイを読んだ人の心の屈折を、万が一にも助長しないことを願うばかりである。
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