遭難(岡田靖幸)

 胸のつかえがある。それがまるっきりとれない。
こう例えば、昼過ぎに起きて特にやることもなくビールを飲みながらマカロニウエスタンなんかを観て
「やっちまえ! バキュンドキュウーーン酒の肴に皆死んでしまえ!」
とか荒唐無稽なストーリーの中で無責任な言葉を発している時にも、
そんな出来うる限りの贅沢をしている時にも、
「はあ」
と身体のどこかで言うのである。どこかってそれは胸である。そしてそれは誰かって僕である。僕以外の奴が僕の胸で
「はあ」
なんて呟いていたら僕はどうするだろうか。
「やあ」
と声をかけるのだろうか。
手っ取り早い最高な友達が出来ると内心は思い、その内心で友達を作る心づもり。
いやいや、ややこしい。寧ろそれは、それがつかえだ。そのそれそれとそれもややこしい。
そして、そんな架空のバッド・マイロ! 的な思考の最中であっても胸につかえがある。
 
 ビールも飲み終わり、マカロニウエスタンも終劇して、ベッドで横になりながら、スマホをいじる。
嗚呼、これはよくない。つい、癖でそのつかえが大きくなる。それはもうしこりだ。具現化だ。ベッドのスプリングが音を鳴らす。悪性だもんで、特に目的のないパズルゲームも気付けば一時間以上で、目も血走る。
毛布に身体を包んで、弛緩して流れだそうとする身体をどうにか保たせ、
僕は、ぼけーっと次に何をしようかと考える。というのも、このつかえの性質なのだが、
何もしていないと、それだけ大きくなりやすく、悪化しやすいのだ。とても面倒で、まったくどうしようもないとか考えていると、
「ぼぼおおおおおお」
とスマホが鳴って、
「はあ」
と応えると
「はあ、じゃねえだろ」
と五年ぶりに聞くその声は、五年前まで近くに住んでいて、良く近所の居酒屋やガールズバーの調べをしてはパロメータを作って、
食べログなんかには頼らず独自の判断基準で良し、オススメするほど良し、オススメしたくないほど良しという評価をする趣味に没頭していた時の謂わば戦友のような、横で良く聞いていた声で、五年というブランクは何も感じず、そのまま今日どこ行く? と言いそうになって、思いとどまった。
「いやあ、あのタカシマってスーパーあったじゃん。もやしが今は倍額だよ、二十八円」
「なんだよ唐突に。これが久しぶりに電話掛けた俺へのまともな会話か?」
「でも倍だよ?」
「バカ、もやしはタカシマじゃなくてまだあのーーー、やおまつの方が良かっただろ」
「あのね。もうやおまつは閉めちゃってるの」
「あ、そうなの」
「そう、そうなの」
「んなことはいいんだけどさ、明日久しぶりにそっちに行くからあそこ行こうよ殺人ホッピーの」
「サソリ! 最近行ってないな、いいよ行こう」
「ま、結婚から子育てがようやく落ち着いたからな」
云々、そこから自慢話、愚痴、子どもの写真(わざわざラインで送ってきて、その写真がまたノンベストショット)と、
たちまち電話は占領されて、いつの間にか電話を切ってしまった。
それから流れるように着信拒否をして、ラインはブロックして、SNSは鍵アカにした。
 さっきよりも部屋の天井は低く、NETFLIXで流していた美味しんぼでは、山岡士郎が海原雄山にメっタメタにやられていた。そして気付いてしまったのは、この胸のつかえ、つまり具現化したしこりは多分もう心臓の大きさ程になっている、ということだった。心臓の鼓動がそのまま別の器官にそのままの大きさで移され、そしてそれが心臓の第二の鼓動のようにして、またドクンと鳴る。
それはやまびこのようにも感じて、全く、感覚も音の大きさも同じように聞こえた。ドクンに重なってまたドクンと鳴るので、
「ドドククン」
と鳴っているように聞こえる。それが、不整脈じゃないのは感覚的にはっきりと判った。しかしだから良い、というよりもだからもっと悪い。
だって気持ち悪い。何じゃいこれ、っていうのが、心臓の横に出来ていて、肋骨に守られていて触ることは出来ないが、瘤になっているのはこれまでのこの身体の人生でこんなことにはなったことはなかったから判る。そして何じゃいこれ、って
「ドドククン」
が聞こえてきてもう嫌になってしまう。俺は布団をかぶって、寝ようとした。何カ月も干していない布団で、一番安かったからニトリで買って、色々な所から羽が飛び出てしまっている。枕にしているのはぺちゃんこになったキティーちゃんのクッションで前の女が置いていったものだ。しかし、それ以前はどうやって寝ていたのだろう。これが全く思い出せないし、胸のしこりはこれを思い出した所でどうにもならないだろう。では、この身体には絶対に休息が必要なんだ。でも寝れない。
「ドドククン」
が鼓動の度に聞こえてきて、耳栓をしてもダメだ。余計に気になってしまう。
 布団に潜っていても事態が変わることはない。ないんですよ。でも、じゃ、起きて溜まりに溜まった洗濯物を片付けてしまおう、という気分にもならない。干すことは叶わなくても、コインランドリーに行って自動でやってもらって、ってまず家から、いや布団から出れない。え、じゃあ、これはもう遭難に近い。遭難て言ってもこれはさ、まあ自分の部屋だし、自分の布団の中だし、自分で自分の居所は判っているんだけれど、でもやっぱりこれは遭難だ。救助隊はまだか?
その時、まるで自分の心臓としこりは高性能のウーファーで、
「ドドドドドオドックククククククククククンバックンゾッコンノファンクチュウウウウウウン!!!!!!!」
まぎれもない重低音のメーデーだった。

フェスボルタ文藝部

”電話一本で誰でも出られるフェス”こと『フェスボルタ』から、部活を始めます。小説、エッセイ、評論、体験談、旅行記、戯曲、インタビューetc.みんなで文章書こうぜ。

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