僕の中で、受付で過ごした日々は、相当に美化されている。
いつも放課後だった気がする。ずっと夕焼けだった気がする。
吹奏楽部が練習するトロンボーンの音がずーっと聴こえていた気がする。
実際は暇さえあれば、というかずっと暇だったから、授業中以外はほぼ受付にいた。
誰も掃除しに来ないから埃っぽくて、西日が差さない昼間のほうが薄暗かった。
校舎の最上階の踊り場。屋上につながる扉の前に置かれた、一組の机と椅子。
そこで僕は、受付係として待っていた。
飛び降りに来る誰かを待っていた。
受験を乗り越えて辿り着いた教室には全く居場所がなかった。
というより、僕以外のクラスメイトの居場所がギチギチにせめぎあっていた。
僕の知らないところで僕以外の全員が何かしらのルールを共有していた。
教室は濃密な仲間意識と緊張感で充満しており、僕は空気になることすらできなかった。
教室からはじきだされた僕は、人の眼から逃げ続け、屋上へ続く扉の前に立っていた。
もちろん扉には鍵がかかっていた。当たり前だ。
それでも僕は何度かノブを回した。
当然ながら扉は開かず、僕はもう逃げられないことを悟った。
よろよろと振り返ったとき、階段を昇ってくるとき見えなかったものに気づいた。
たぶん生徒数の減少で、ここに運ばれ、もう使われなくなった机と椅子たち。
そのうちの一つを移動させ、天板の上に逆さに置かれた椅子を降ろして座った。椅子の脚は歪んでいたし机は埃まみれだった。それでも開かない扉の前で立ち尽くしているより遥かにマシだった。やっと見つけた、という思いが湧いた。不思議な気持ちだった。
ずっとここに座っていたい。
でも、逃げ場所にしては駄目だ。それでは負け犬だ。
何か意味を持って座っていなくては。
歪んだ僕の自意識が吐き出した存在意義、それが、受付だった。
ここで待っていれば、いつか、誰かがやってくる。
その誰かは、僕みたいに居場所がなく、僕みたいに疲れ果てている。
僕はその誰かに、優しく声をかけてあげるんだ。気持ちわかるよ、って。
そうしたら感謝されるかもしれない。僕の話も聞いてくれるかもしれない。
死にたいくらい弱った人なら、僕でも、友達になれるかもしれない。
そして僕は、受付を始めた。
不思議なもので役割を作ると、学校にいることは苦ではなくなった。
授業が終わるとすぐに屋上に向かい、ひしゃげた椅子に腰かけ、じっと待った。
宿題をし、本を読み、西日にキラキラ反射する埃を眺めた。
大学ノートを買ってきて受付帳にした。一ページ破って「受付」と書いて机に貼った。
夏には汗を拭いながら、冬には手を擦りあわせながら、僕は待った。待ち続けた。
誰も来なかったよ。3年間。誰も。
卒業式の日、僕はバカみたいに胸に花なんかつけたまま、高校生活という課題を各々のやり方で完遂した達成感に涙するクラスメイトをかいくぐり、雑巾を片手に屋上へ向かった。
ぴかぴかに磨きあげた机と椅子を、僕は元あった通りに重ねて、踊り場の片隅に戻した。
僕の受付は、僕の役割は、僕の青春は、こうして終わった。
受付をやめてからいろいろあった。大学入って出て就職して交際して転勤して破局して、医者にかかって復職して退職して、入院して無一文になって、それでも僕は、受付の話だけは、誰にもしなかった。高校時代は寝てばかりいましたと、貼り付けた笑顔で答えていた。いつしか自分でもそう思い始めていた。全てを夢にしようとしていた。
だから、僕の受付の話は、今ここに初めて書く。
誰だかわからない君のために、初めて書く。
ノートとペンを置いていてくれてありがとう。
涙で滲んで読み辛かったらすまない。
数字を伴った絶望を抱えて、僕は十数年ぶりに、この校舎へ死にに来た。
最期にどうしても、僕の居場所だった踊り場に行きたかったから。
そこで、この机と、この椅子と、このノートを見た、僕の気持ちが分かるか。
僕とは違う筆跡で、僕みたいな弱々しい字で、「受付」と書かれた紙を見て、膝から崩れ落ちて号泣してしまった、僕の気持ちが、君に分かってもらえるか。
ここは今も夕日がきれいなのかな。トロンボーンの音はまだ聞こえるのだろうか。
何かが起こっても、きっと何も起こらなくても、ここは君の居場所だ。君の受付だ。
日常へ、地上へ、僕は帰る。君と会うことは、おそらくもう無いだろう。
だから、君に伝えたい言葉を、ここに書いておく。
僕が一番言われたかった言葉だ。
ありがとう。僕は、君に救われたよ。
0コメント